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約半年振りに降り立った青春台では桜がそこかしこに咲いていた。昨日一昨日の雨で落ちた花びらの隙間を埋めるように新緑が顔を見せる、美しい葉桜並木が、白石が向かった公園を囲むように植えられていた。道は綺麗に掃除されて、片側に花びらが寄せられている。なるほど、この町並みなら桜に臨むと彼女の通っていた学校に名をつけた者の気持ちも分かる、と白石は思った。
彼女は珍しい桜色のブラウスの制服で、スカートの襞が崩れるのも気にせずによく走って待ち合わせ場所に来ていた。自分の姿を確認するなり嬉しそうに走ってくるものだから、自然に口元が緩んだ日々を思い出しては、白石はやさしい気持ちになる。彼女と居た短い時間は本当に笑ってばかりだった。幸せだったと言っても良いのだと思う。
白石は入口のあたりに萼ごと落ちてしまっていた桜を一つ摘みあげると、それを左手に公園付属のテニスコートに入って行った。2ヶ月かそこらの短い時間でここへは何度通ったか知れない。ただ、一人でここを通るのは二回目だ。彼女に出会った日に通った一度目と、今の二度きりだ。あとは彼女とテニスをしに来た時ばかりだ。いつもラケットを片手に、時間を忘れて二人でテニスで楽しんだ。ここは白石にとって夢のような二ヶ月のを象徴する場所だった。
三時過ぎのダブルスコートには他に人は居なかった。丁度良い、と一人呟くとベンチに荷物を置いた。持ってきたバッグの中から、左手の桜を握り潰さないよう留意しながらラケットを取り出し荷物と同様にベンチの上に置く。それは中学の間ずっと愛用してきたラケットで、このラケットで彼女とストリートテニス大会も勝ち抜いた。白石の中では、彼女と過ごした時間に関わったものは全て格別なものになっていた。このラケットも特別なもので、だから東京に一緒に持ってきた。
白石は少し考えて、桜をガットの間に差した。萼が上手い具合にガットに支えられる形になって、まるでラケットに春が咲いたようだった。白石は制服のポケットに入れていた携帯を取り出すと、カメラモードに設定した。ストラップに右手を通すと、反対の手でそろそろとベンチからラケットを持ち上げた。桜が落ちてしまわないように面を地面に対して平行に保ちながら、白石はコートに入る。コートの中にも桜の花びらがたくさん入っていて微笑ましい気持ちになった。構えたガットの隙間からも桜が臨める。良い写真が撮れそうだ、と思った。白石は右手に提げた携帯を器用に持ちなおすと、思い切りよくシャッターを切って写真を保存した。ラケットを静かにコートに置き、利き手に携帯を持ち替える。文面に迷う事なくさくさくと短いメールを打つと、先ほどの画像を添付して送りだした。さあ、これから帰りの新幹線の時間までに返事が来るのかどうか。そして彼女が、このメールが今日送られることに意味があることに気づくか否か。どちらも賭けだったし、賭けてみたくなったから、白石は今日東京に出てきたのだった。メールの送信が完了したのを確認して、携帯を折り畳む。ラケットを持ち上げると、白石はベンチに戻りそこに腰掛けた。一人ではテニスはできなかった。
枕元の携帯がアラーム音を立てる前に目が覚めた。普段起きる時間に比べて外が随分暗く感じられたので、気になって待受を開けば朝の5時半だという。と、そこで携帯が寝ている間にメールを受信していることに気付いた。昨晩寝る前には何もなかったはずだ。こんな朝早くに、一体誰が――。疑問に思いながらもとりあえずメールを開く。一番植えに表示された送信者の名前を目にした瞬間、意識が覚醒した。跳ね起きてメールを読む。内容自体は短かったので、読むのには20秒もかからなかった。彼女は読み終えるなり布団を抜け出すと、急いで支度をした。右手にラケットを、左手に携帯を握ると彼女は外へと飛び出した。行かなければならないところがある。
彼女が向かったのは最寄りのテニスコートだった。彼女が毎朝自主練を積んでいるそこは、早朝のため誰も居なかった。息を整えながらベンチに座ると、携帯のアドレス帳から目的の人物の番号を呼び出し、ためらうことなく通話ボタンを押した。仕方ない、今月はちょっと節約しよう。オーバーの通話料は自己負担と、こちらに越してきた時に家族会議で決めた。
高鳴る心臓をどうにか抑えながら、何故か震えている手で携帯を耳に押し当てる。これは一種の賭けなのかもしれない、と思った。彼が電話に応じるか否か。そして彼がメールでしてきた問い掛けに、自分の寝起きの頭が直感で弾き出した答えが正しいのかどうか。彼女にはこの電話は絶対に一度で繋がると理由なく信じられた。賭けてみたい、自分の謎の直感と彼に。
数回のコール音の果てに、彼女は自分の直感が正しかったことを知った。思わず、携帯を持っていない方の手でガッツポーズを取った。
「白石さん!」
転校が多く、固定の大切な友人というものを殆ど持っていない彼女にとって、白石はかけがえのない存在だった。ダブルスのパートナーとして一緒にコートに立った2ヶ月間は、まだ15年にならない一生の中でも酷く鮮烈に輝いている。朝届いたメールは彼からのものだ。10時間の時差では、変な時間に手紙が届いてもしょうがない。そして今回はまた、特別な理由があった。
「16歳のお誕生日おめでとうございます!」
電話の向こうで彼が嬉しそうに笑ったのが感じられた。彼はよく笑う人だったと記憶している。いつも目がきらきらしていて、楽しいことがあると幸せそうに目を細める人。彼のことを思い出すと、一緒になってニコニコしていたことばかりが思い出される。
「ああ、おおきに。よう覚えてたな、俺教えたんやっけ」
「桜乃ちゃんに聞いてたんですよ。……ねえ白石さん、まだ公園のコートにいますか?」
彼からのメールには、短くこう書かれていただけだった。
――今どこにおるでしょう?
迷わずたたき出した答えを自信を持って告げた。彼が居たのは絶対あの公園のコートだ。ただ不安だったのは、彼が「今」と書いた時間から、もうすぐ40分になるという点だった。そこにだけは確信がもてなくて、疑問調になった。
「……ああ、おるで。青春台の、コートのベンチ。珍しいで、こっち今3時50分てとこやけどまだ誰も居らへんの。君はどこに居る?」
「前にもメールしたテニスコートです。こっちも朝早いから、誰も居ませんよ」
「ほんま? なんや奇遇やな」
嬉しそうに彼が言うものだから、一緒に気分が高揚してきた。その懐かしい感じに、彼と話しているのだと改めて実感した。
「でも、白石さんなんで青春台に? 授業とかもそうですけどわざわざ東京に…」
「授業は新入生やから今日は健康診断だけで午前帰り。コッチに来たんはなあ……」
「来たのは?」
白石がふっと笑うのが電話の奥から聞こえてきた。彼がどういう顔をしているのか、なんとなく想像ができる。自信たっぷりの笑みを浮かべているはずだ。
「……テニスしようと思て」
え、と思わず声が漏れる。だってさっき彼は一人で居ると言ったはずだ。一人ではテニスが出来ない。不思議に思って、直球で尋ねた。
「白石さん、一人で居るのに?」
「せや。……でも、今は違うやろ?」
「え?」
「君がコートに来てくれとるやろ。……そういうことや。君とテニスしたいけどできひんから、せめて試合しとった時みたいにコートで会話しようと思て。でもって会話するんは、このコートに居ないと俺は意味がない。せやから東京に来た」
「そうだったんですか……」
白石がそう話すのを聞きながら、コートまで出てきて正解だったと思った。ここなら自分も、彼と一緒にテニスをしていた時のようにして、彼と同じように会話ができる。
「賭けやったんやで? こっちに居られる間に君が応答するかどうか。勝ててほんまに絶頂やわ」
「私、朝いつもより早く目、醒めちゃったんですよ。白石さんが呼んでたんですね」
ふふっと笑ったら呼応するように彼も笑った様子が伝わってきた。ああ、本当に彼と話している間は笑顔以外にはなれない。
「せやな。最高の誕生日プレゼント、確かにもろたで。おおきにな」
「はい。あの、私も白石さんとこうしてコートでお話できて楽しかったです! ……また一緒に、絶対テニスしましょうね」
「もちろんや。楽しみにしとるで。それじゃあまたな、朝っぱらからほんまにおおきに。めっちゃ幸せ」
「私もです。それじゃあ、また」
プツリ、と電話が切れる。彼が誕生日に自分との時間を望んでくれたことが無性に嬉しくて仕方がなかった。そして彼もまた同じような気分でいることを信じられる、この満ち足りた気分こそ幸せと呼ぶのに相応しいのだと思った。
一人ではテニスはできない。二人で居るから幸せで、テニスができるのだと彼女は知った。自分の誕生日にも彼と一緒にテニスをしたいと思う。
新学期が始まって間もなく、まだ完全に日々の生活リズムを取り戻せずにいた財前にはなかなか辛いもののあった早起きも、一週間続くとそれほど苦でなくなっていた。今年度になって初めて、二度寝防止にセットしているスヌーズ機能が作用する前に起き上がることができた朝だった。この分なら、まず朝練には余裕でいけるはずだ。もしかしたら、いつも一番に来て開錠している部長よりも先に着けるかもしれない、彼が何時頃部室に来てるかも知らないけど――。
財前らしからぬ期待を心の片隅に抱きながら、少し意気込んで玄関を出ようとドアを開けた瞬間だった。
「おはよーさん。何や、案外朝早いやん」
いつも一番に部室に行って、開錠して、人が来るまで密かに(部員の大半が知っているので密かでもなんででもなかったが)自主練をしているはずの庭球部部長、白石蔵ノ介が爽やかに笑いかけてきた。
「っ……!?」
居るはずがない人間が目の前にいたことですっかり動揺した財前は、おはようと挨拶を返すことも出来ずに立ち尽くしてしまった。何故彼がいるのか、その意図が分からなくて、ただただ母親や義姉が玄関までは見送りに来ていなくて本当に良かったなどと場違いなことを財前は思っていた。
そんな財前のリアクションに満足気にひとり頷くと、白石は財前の手を掴んでクイ、と引っ張った。それに引きづられるようにして彼を見た途端一瞬にして吹き飛んだ言葉が漸く戻って来た。
「なんで通学路の欠片も被らん部長がウチの前に居るんすか」
真っ先に聞くべきだった言葉を時間差で口に出すと、白石は軽く首を左右に振って、子供に言い聞かせるような調子でゆっくりと言った。
「財前、おはよう」
「……おはようございます」
早朝から後輩の家の前に突っ立って、しかも自分を待っていたらしい彼を問い詰めようとする財前の勢いを、白石は見事に削いだ。財前もわが道を行くというところがあるが、白石はまた少し違った種類のマイペースな人間だった。白石のマイペースは、他人を自分のペースに巻き込むマイペースだ。財前は、たった一言二言会話を交わしただけだったが、この後見事に彼のペースで話が進んでいくところが容易に想像できた。自然、溜息が漏れる。自分のペースが乱されるのはあまり好きではないが、彼相手に抵抗しても上手くいかないことは丸一年の経験上分かっていた。無駄な労力を割くのはもっと嫌だったので、財前は溜息一つ吐いて腹を括った。彼のペースで話が進むのはもう諦めよう。せめて、これ以上隙と言うか、無様な姿を見せないようにしよう。
「……あの、学校行くんすよね」
「ん? どっか遊びに行きたい?」
「はあ?
「いやいや、冗談。朝練せえへんわけにはいかんやろ、やっぱり」
「さいですか」
うん、と簡単に頷くと、白石は繋いだままだった財前の手を引いて歩こうとした。それに気付いた財前が白石の手を払った。白石は大袈裟に一度肩を上下させると、気分を害した様子もなくそのまま歩き出した。財前も後ろを追う。
「残念、財前くんと手ェ繋げるかと思たんやけどな」
「全然残念そうに聞こえへんのですけど」
「えー、残念やて」
「……ちゅーか、男同士で手ェ繋いで何が楽しいん」
そもそも白石の感覚や意識は、一般中学生男子のそれと少し離れていることが多い。考えたがりの財前はその理由についても考えてみたことがあったが、結局はよく分からなくなって放棄した。しかし、同世代の男子と離れているからとは言って常識は外れない人なのに、男同士で手を繋いで登校をしたいと言い出した訳は解せなかった。彼が恐らく一番仲がいいと思われる謙也とも、一緒に全力疾走して校門に飛び込んでくることはあれども手を繋いで歩くところなんてみたところがない。何で俺と手を。そもそも何で俺の家の前で待機を。よく分からないことが積み重なり始め、財前は気持ちが悪くなってきた。
そんな財前の内情は露知らず、白石はカラリと晴れやかな笑顔で答えた。
「楽しいちゅーか、俺の誕生日プレゼントに」
「……はい?」
よく分からないことがもう一つ重なった。財前は反射的に去年の同時期のことを思い出そうとしたが、そのころはまだ部活の見学期間で、正式に彼とかかわりがあった時期ではなかった。そういえば昨年度、彼の誕生日が祝われているのを見た覚えがない。それで初めて財前は気付いた。そうか、彼が言ったとおり今日は――。
「……あの、誕生日おめでとうございます」
「うん、おおきに」
「それで…何で部長の誕生日に部長が俺の家に居ったんすか。逆ならまだしも」
最初に曖昧にされたまま、彼が今日財前の家の前で待機していた理由は教えられていなかった。彼の誕生日であることとは少なくとも関係がありそうであったが――プレゼントが、何だって?
疑問をたくさん抱えた財前に、白石は嬉しそうに微笑むと、一つ一つを語り出した。
「今日を、特別な誕生日にしようと思うて」
「トクベツ?」
「うん。後々ちゃんと思い出せるような。15歳の誕生日は、ああやった、って」
「……15歳限定なんすか」
「限定。15の誕生日って何の意味も持たないやん? 14なら刑務所入れるようなるし、16ならゲーセンとか居れる時間延びるけど。15ってなんもない、特別やない誕生日」
「はあ」
「普通の誕生日は、普通に思い出さなくなるし、思い出せなくなると思わへん?」
「……考えたこともないですわ」
「俺も昨日までなかった。でも昨日突然そう思いついて、夜中になんとなくさみしなってな」
予想もしない言葉が彼の口から出てきて、財前は驚いて少し声が大きくなった。
「さみしい?」
「うん。それでちょっと考えて、財前と一緒に登校しようと思うたん」
「おれ、と」
「そう、自分と」
「……なんで俺か聞いても?」
「財前は、二年やから」
「そんだけ?」
「そんだけ、っちゅーこともないけど…4月14日を一緒に過ごした数は、3年の連中より一回少ないやろ?」
「まあ」
「せやから、一回足りひん分をカバーできるぐらい特別で意味のある誕生日を財前と作ろうと思て」
「……で、後なにか俺とする気なんすか。まさか一緒に登校して終わりーなんて言わんでしょ」
「お、サービスしてくれるん?」
「あんな話されたあとで正直年上の人邪険にしにくいっすわ。知ってたけど、案外部長そういうとこズルい」
「……せやからね、俺ちょっと手ェ繋ぎたいねん」
「……まあ、ああ言った手前ちょっとは付き合いますけど、先輩キモいっすわ。何であえてそれ?」
「今年のプレゼントは、形に残せないものをねだる、がテーマやねん」
「形に残せないもの……」
「感覚に頼るものな。せやから俺は財前の『温度』をもらおうかと思っててん」
「また妙なもの所望しますね」
「エエのエエの。メールとか手紙とかの形に残るものもエエんやけど、証拠のない……言ってしまえば記憶だけが残るんがエエの。そうしたら忘れないし、ずっと覚えていたいと思うやろ」
「俺と、朝っぱらから手ェ繋いで登校した時の、俺の手の温度?」
「せや。……絶対忘れへん誕生日やで、でもって財前にも忘れられん日になる。言ってみればエクスタシーバースデーや!」
「変態の先輩に手ェ繋がされた日っと」
「抱きしめられた日、よりはマシやろ?」
「それで更新される日が来ないことを祈りますわ」
はあ、と一つ溜息をついて息を整えると、財前は一度振り払った手を自ら取った。彼の手のほうが自分のものよりも少し温かくて、それで財前も白石の温度を覚えた。この分では彼だけでなく自分まで彼の温度を覚えてしまいそうだ。なるほど、これは確かに一生忘れられない日になりそうだった。
「きっと、次に無我に到達するのは白石」
「……俺?」
「今の中学テニス界で、次に無我の境地……そして、その先の扉にたどり着くのは白石、お前だと思う」
「……それで?」
「ん?」
「千歳は俺に何を期待しとるん。出来ることだから、俺も早く無我へたどり着けって言いにきたん?」
「……そうじゃない」
「へえ?」
「そうじゃないけど、無我を知ればきっと白石もテニス中学限りでやめよう、とか言わないと思って」
「……その話、誰に聞いたん?」
「なんのこと?」
「俺が中学限りでテニスやめるって……」
「別に誰に聞いたわけでもなし、言ってみただけ。……図星?」
「……墓穴掘ったな、聞くんやなかった」
「本当にやめる気だった?」
「高校はテニスが強くないところでも良いとは思ってた」
「……そっか。じゃあ、なおさら無我を知ってから中学卒業した方がいいと思う。きっと、テニスから離れられなくなる」
「それ、仮にも一度退部しかけた奴が言っても何の効力もないわ」
「俺はテニスからは離れようとはしてないけど」
「屁理屈こねんなや。俺らの大半が言うテニスは部活や」
「まあ……結局戻ってきたし。それにあの後戻ってきて、手塚と試合して……それで、もうちょっとここでテニスやってもいいかと思った」
「……ああ、そういうこと」
「ん?」
「俺をテニスに引き止めるのもそうやけど、同時に自分もここにひきとめるために、俺にあないなこと言うたんやな」
「え?」
「俺が無我に辿り着いて、お前の相手が一人増えれば、お前がテニスを遠ざかるのが一歩遠ざかると」
「……そう解釈されるとは思ってなかった」
「せやな。俺もこんな仮定に至るとは露ほども」
「まあ、白石がテニスを続けてくれるのはありがたいけどな。強い相手は少しでも多く残ってくれるほうがいい」
「よう言うわ。……俺とは一度も試合しようとはせえへんかったくせに」
「それは……」
「オサムちゃんの命令もあったことは分かっとるしエエよ別に。ちょっと噛み付いただけや、すまん」
「ああ、いいけど」
「しかし無我の境地、なあ。正直どうでもエエんやけど。無駄な動きも増えるし。そないなもんに頼ろうとはしてきいひんかったし、これからもそのつもりでおったから、今更その可能性を提示されても持て余すわ」
「だからこそ、白石は無我を見つけるべき」
「ん?」
「さっきは言わんかったけど、白石なら百錬自得の極みに辿り着けると思う」
「……手塚が会得しとるあれか」
「俺が白石に辿り着いてほしいのは、無我の先のそこ。そしてお前なら恐らく成し得る」
「無駄なく力を一点に集中させ、倍返しする、か」
「ある意味、白石の聖書の究極系にあたると思う。……手塚は白石のことを自分の目指すテニスの一つの完成形と言ったけど」
「その実、完成形はあっち、か……」
「だから、白石は百錬をすぐにとは言わないけど、無我を知るべき。完璧なテニスの上に、さらに完璧を重ねられる可能性を」
「そして知ったときにはテニスを手放せないっちゅー訳か」
「……」
「……せやな、じゃあもう少しだけ頑張るか」
「おお」
「11月の合宿、やっぱり行くかな。ほんまは受験のこともあるから行かないで財前の指導、とも思っとったんやけど。最後、テニスを続けるかどうか見極めに」
「……白石、掴めよ」
「……確約はせんで。それに万一無我を会得できたとしても、使う使わないは俺が決めること、やからな」
「ありがとう、それで十分」
「ん、ああそれと千歳」
「ん?」
「無用とは思うけど一応な、他には話すな」
「無我のこと?」
「俺がテニスやめる気でいたこと」
「ああ、そっち。はいはい、了解」
「……ほんまに頼むで」
明日SBP特設のほうにうpしなおすよ 今日は寝ます←←
「だってクーちゃんに貸してあげられないからね!」
サインペンを机の上において、脇でテレビを見ている兄をビシッと指を指しても、彼は曖昧に笑うだけだった。嗜めもしない。どんな物言いをしてもある程度許容してくれるのは末っ子の特権だと考えている友香里は、その立場を有効に活用している。好き放題やらせて、言わせてくれる兄が好きだ。
「……ちゅーかゆんちゃん、俺と被ってる教科書半分くらいやろ。それに俺が貸すことがあってもゆんちゃんに借りることは多分ないと思うんやけど」
新学期が始まって新たに配られた教科書を友香里は卓上に広げていた。新品のそれらに、一つ一つサインペンで名前を書いているところだった。少し丸文字気味の友香里の文字で、クラスと出席番号、それと苗字が連ねられている。
「いーの! クーちゃんが昔どうしても見つからなかった教科書をお姉ちゃんに借りた時ウチは決心したん。書いてあるのが苗字だけなら、姉妹のやって学校でバレることもなくて、クーちゃんはまず恥ずかしい思いせえへんやろって!」
もう4年近く前の話になる。日曜日の夜に翌日の時間割を揃えていた蔵ノ介が算数の教科書が足りないことに気付いた。整頓された部屋を、心当たりのある場所から手当たり次第に探したが見つからなくて、仕方なく既に小学校を卒業していたが教科書やメールを残していた姉に頭を下げて借りたのだった。余談だが、その算数の教科書は当時隣だった女子の荷物に何故かしら紛れ込んでおり、翌日謝罪と共に地元で人気のお菓子屋さんのクッキーを受け取った。
そんな一つ上の兄の姿を見てから、友香里は教科書に限らず持ち物に白石、としか名前を書かないようになった。何でも兄と共有できる。自分のものも兄のものも区別なく。――筆跡で兄のものと自分のものとは明確に区別できることは分かっていたが、それでも友香里は自分の下の名前を、兄と共有したいと思うものに書くことはなくなった。
また、逆に自身の持ち物だと明確に主張したいものには下の名前をきっちり書くようになった。主に食べ物だ。中でもヨーグルトは白石家では争奪戦の気があるので、お気に入りのりんごヨーグルトにはしっかりサインペンでゆかり、とふたに書くようにしている。
「……はいはい」
4年前から変な習慣のついた妹にあわせて、蔵ノ介も持ち物には、極力苗字しか書いていない。――万が一友香里が何か失くし物をしても貸してあげられるように。借りた友香里が、恥ずかしくないように。
それが蔵ノ介の妹に対しての愛で、そのことを知っている友香里はそれを素直に享受している。それが妹の、一応の兄に対する愛情表現だった。こうして白石家には、『白石』としか名前の書かれていないものがたくさん増えている。
「……白石どないしたん」
「え、先生覚えてへんの?」
「それ俺が言うたんやっけ」
「はい」
「マジでか」
「マジです」
「いつ?」
「ダメ、それはセンセが自分で思いださなあかん」
「いや、全く思い出せん。無理。限界です」
「何の努力もしいひん人に教えるわけにはいかへんです。即白旗挙げよって」
「あー……お前にそういわれると返せる言葉がないな」
「何やそれ白石! 絶頂より数倍ドン引きやわその台詞」
「酷いわあ、後で新部長にチクったろ」
「やめて財前に言葉の暴力振るわれるん嫌やわ」
「そんな金ちゃんと似たりよったりのこと言い寄って……ま、エエけど。それで、思い出した?」
「全然」
「えー…ほんまにだめ? あかん?」
「アカン、何やったっけ」
「……今年度の春に、一回だけ俺部活無断欠席したんやけど……」
「無断欠席」
「え、これでまだだめ?」
「無断欠席……あ、」
「分かった?」
「あー……あったなあ、そんなこと」
「あったっしょ」
「あったあった。最初はトイレ行ったんやと思っとったらそのまま帰って来ぃひんかったやつな。で、翌日話聞いたら定期圏内でうろうろ徘徊してたっちゅー」
「そう。千歳とかんこと普段注意してるくせに、自分がこれじゃ示しつかんと思うてめっちゃヘコんでたんすけどね」
「はいはい、あー、言うたかも」
「オサムちゃんめっちゃ嬉しそうやったんで、結構びっくりした」
「教師としては注意すべきかもしれへんけど、人間としては丸やれると思うたわ。せやせや、話聞いてほんまお前ちゃんとした大人なれると思た」
「なんで?」
「まっとうな人間になろう思たら、ああいう子供の内にやっとくべきヤンチャとかをちゃんとしておかなならん。……分かるな」
「なんとなくは」
「珍しいな。それで全然構へんけど。やー……とにかくあん時は驚いた。お前いい子ぶるからああいう思い切りのいい行動にも出れるんかと思って感動したわ」
「せやったんや」
「せやで。あー、忘れててすまんかった」
「ううん、おおきに。裏話聞かせてもろて嬉しかった。……なあセンセ」
「何や」
「あの言葉がな、俺オサムちゃんに言ってもろた中でいっちゃん嬉しかったかも」
「……あほ、それは自分で自分買いかぶりすぎやったんや。お前なんかあいつらん中じゃ落ち着いとってもまだまだガキやで」
「うん、知っとるよ。でもあいつらと居ると俺が一歩引くことが多かったと思うのも本当で、オサムちゃんはそゆとこを『自分で自分買いかぶりすぎ』言うたんやろ?」
「白石、お前めんどくさ」
「……うん」
「ガキなんやから、もっと気楽に生きてもエエのにな。まあ、悩むのもガキの特権や」
「……オサムちゃんなんでも子供ならエエと思っとるの?」
「お、エエこと言うな。人生のお約束は高校生までに経験しとき! 大人になってからできても大人になったら意味のないことなんかたくさんあるで。ケンカとかな」
「サボりとか?」
「せやで、お前みたいな性格んやつはサボってイイことあるんはほんまにガキの間だけや。自分の責任で、好きなようにやれ。……まあ尤も、こういうんはちゃんと自己責任で管理できるお前やから言うんやけどな」
「……ん、おおきに!」